出会いと別れの季節
先日、神戸でタクシーに乗る機会があり、そこそこ興味深い話を聞いた。最近はタクシーを運転して目的地に行く際、よっぽどわかりやすいとこじゃない場合はカーナビに頼って行くため、道を覚えることが少なくなったそうだ。もちろん全てのタクシー運転手がそうというわけではないだろうが、なんとなく思うところが多い話に思えた。
技術の進歩はすごいものである。自分は所詮二十数年しか生きてはいないが、それでも目に見えるレベルの変化があった。小学生の頃家にあったパソコンはぶっとい液晶でWindowsも98だったのが今では薄い液晶でWindowsも10だし、母親しかもってなかったケータイはPHSだったのが今では画像全員持ってるしiPhoneだったり今の時代小学生でも平気でスマホを持っている。すごい時代になったものだなぁ。
世の中そういう文明の機器が便利になったおかげでわからないことがあればすぐに調べられるし、生きやすい世の中になったことは確かである。
しかし、だ。
ここで最初のタクシーの運転手さんの話に戻ってくるのだが、人間楽なものがあるとそれに頼りすぎて自分で考えなくなったりする部分があるのが事実。これはなにもタクシーの話に限ったことではない。例えば漢字の読み書きだってそうだし、はたまた将棋の検討だってそうである。コンピューター将棋ソフトも強くなって検討するのに有用な存在になったが、結局大会など人間同士で指すぶんにはソフトは使えず自分で考えるしかない。そういう時にテクノロジーを鵜呑みにして自分で考えていないとどうなるか、結果は火を見るより明らかであろう。
結局なにが言いたいかというと月並みな事なのだが、テクノロジーに生かされるのではなくテクノロジーと共に生きなければならない、ということである。もしかしたら数十、数百年後はその必要すらない社会になっているのかもしれないが、その逆も然りである。「人間は考える葦である」、この言葉は時代を経て別の意味でも重要な意味を持ってくるのかもしれない、そんなことを思う2018年3月。
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3月、4月といえば出会いと別れの季節である。実際にそういうかはわからない。まぁだいたいはあっていると思う。
この時期になると進路や就職先があらかた決まり、それまで同じ地域に住んでいた人は寂しいね〜元気でね〜というやりとりをするのがおなじみである。人それぞれだとは思うが。
自分の場合は割と淡々としているのであまりいつもと変わらない別れ方をすることが多い。それ以降付き合いが続く人間とは元々かなり深い付き合いだし、そうでない人間はそうではないというだけである。味気ない人間だとは思うが、そう育ってしまったものは仕方ない。どこで道を間違えたのか…
今年は出身高校、中高一貫なので厳密には中高で自分と最後に被った(高3と中1)世代の子が卒業する。当時高3なのであまり絡んだ後輩もいないのだが、そう思うと時が経つのは早いものだ。
その世代でよく絡んだ後輩は二人いて、片方は将棋方面でお世話になったAくん(厳密にはKなのだが、便宜上)、もう片方はゲーム関係でよく遊んだKくんである。5歳差というのはそこそこ大きい差だと思うし、ましてや少し被ってるとはいえほとんど被っていないのによくしてくれて本当にありがたい。二人とも関東の方に行くようで気軽に会えなくなるのは寂しい。ご卒業おめでとうございます。
別れは何も卒業だけではない。就職、異動、その他色々な事情で別れることもある。
そういう意味で一人書きたい人物はいるのだが、書くと正直目の前が見えなくなりそうなので書かないでおく。一つだけいうと向こうでも頑張って欲しい。
別れというのは寂しいことではあるけど、人間いつしか別れなければならないこともあるし、様々な出会い別れを乗り越えていかねばならぬのである。最終的に死んで一人になることを考えれば別れの数だけ出会いがあるわけで、そう捉えれば少しは救いようがあるかもしれない。葦は踏まれても立たねばならぬ。そうして立った先にはどんな出会いが待っているのだろうか…
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どうも、湯田です。実はツイッターの名前も湯田から元のHNに戻してしまったので湯田を名乗る必要はないのだが、こっちまでそのHNにするのはなんとなく嫌なのでこのままにしておく。
このブログは一応何かしら書きたいテーマを定めて、それに関して色々文字を重ねていくという感じで書いていて、テーマ自体は年始の時点で候補があったのだが、書いてる途中でなんか違うなという感じになり、新たにピンときたのがこれである。年始一発目だから明るめな話から始めようと思ったのだが、申し訳ない。
というわけで今年もこんな感じに緩いペースで書いていこうと思うので、よろしくお願いします。